−−−福蔵院−−−
真言宗豊山派で長井の遍照寺の末寺であり昌福山元福寺福蔵院といいます。本堂は永享年間(1430年頃)宥日上人の中興開山と伝えられています。享保9年(1724年)再建され、宥将中興、(願主佐々木宇兵衛妻雷神母)、とあります。また弘化2年(1845年)火災のため再建され、真竜中興、(佐々木豊永)とあります。山門は平成12年12月建て替えられました。
毎年正月8日お大般若法会

昔、成田の三島地区にあった、正一位三嶋大明神が八幡神社に合祀されたので、文久元年(1861年)建てられたといわれる本堂を明治41年(1908年)今の所へ移し金色本堂となりました。拝殿はそれより早く慶応元年(1865年)に新築されていました。馬鳴菩薩を祀ってあり、養蚕の守り神として養蚕の盛んなころは農家の方々がお参りでにぎやかでした。今でも毎年春、豊作と家内安全を願って護摩が行われます。
梵鐘は最初文政5年(1822年)に作られたものでつぎのようなことが書かれていました。「行蔵院の源智は質実で、学問を開き教育に功績があったので褒賞がありました。これを記念して大きな鐘を八幡山に掛け、その重さは万貫、鐘の首は海獣のようです。身は龍文、その響きは雷のようで、徳は神様のようです。朝晩悪いことを戒め、ひとの守るべきことを教え、五穀豊作で皆が幸福であり長生きして国が栄えるように」というものです。明治の神仏分離ため八幡山行蔵院から福蔵院へ移されました。
無縁佛供養 地蔵尊
東庭 小田切寒松軒が東山を背景にして描いた絵をもとにして作られた庭園。
白地蔵尊
 白地蔵と呼ばれる石の地蔵様。天保年間(1830−1844)菅野幸三郎家に体の弱い男の子がいて医術もすすんでいなかったため14、15歳で亡くなりました。その頃菅野家の本家に荒久七と呼ばれる力持ちがいました。多分、本名は久七で豪傑なので「荒」の字をつけて呼ばれていたのでしょう。その子の供養のために高畠から地蔵様を背負ってきて、今度生まれてくるときは地蔵様のように丈夫な体で生まれてくるように祈ってまつったといわれております。台座を含めて200kgある地蔵様を高畠から4−50kmもある道を傷つかないように背負ってきたと伝えられる。。お参りして頭痛がなおった、とか地蔵様の体をけずってその粉を虫歯につけると痛みがとれた、などと評判になり遠くからお参りに来る人が多くなりました。地蔵様はけずられるのでみにくくなりました。
儀左衛門のお稲荷様
 いつの頃にたてられたのかわかりませんが、宮村の大二醤油店の土地にあったものが現在の場所へ移されたもの。商売繁盛を願って商売の神様である稲荷大明神をまつったものと思われる。
あかしあ橋
平成13年開通した下野川橋、平成18年1月13日撮影
羽前成田郵便局
 めずらしい水車小屋のある郵便局
局の名前に羽前、とつけたのは千葉県の成田市に成田郵便局があるので区別するためで、昔山形県のほとんどが羽前の国と呼ばれていたからです。
お稲荷様
 羽前置賜郡成田村鈴木平左衛門が天明9年(1789年)京都の、本宮正官羽倉摂津守から正一位稲荷大明神建立の許可証を受けて建てたもの。今もその安鎮証が平左衛門に残っている。お堂や鳥居は高畠石で造られている。最上川を利用して舟で運んだものではないかと考えられます。
行蔵院(小松慎一)家
 村鑑というのは江戸時代、その村の名前、戸数、住民の数、田や畑、牛や馬のことなどを書いた帳簿のこと。そのなかに「日光御門主兼羽黒山寂光寺末八幡山若宮寺行蔵院と書いてあり、羽黒山と深いつながりがあったと思われる。
 昔から高いきれいな山は神の住むところと考えられていて、そこで修業した人が修験者として尊敬されていた。米澤藩の修験では羽黒山派が主になっていて、行蔵院はその中でも六先達という格式か゜あった。六先達の一つとして3年ごとに羽黒山の牛王という災難よけのお札を村々に配り初穂料を受け取る格式を持つ。
八幡神社
天喜年中(1053年ー1058年)源頼義が社を造って祀ったと言い伝えられている。
鎌倉の鶴岡八幡宮の分神をお迎えしたといわれている。
塔様
石造り多層塔、鎌倉時代、文治2年(1186年)秋、7人の山伏が宿を願い泊めてもらう。。山伏たちは源の義経が兄頼朝に追われ、山伏姿になり奥州平泉の藤原氏を頼っていく途中で、一行のなかの娘が急病になり、しかたなくしばらく宿にとめてもらうように頼んでこの地を去った。。この娘は武蔵坊弁慶の娘であった。証拠として日の丸の軍扇を出し、これは弁慶が義経の家来になったときにもらったもので、父がここを出発するときに形見としてわたしたたものであると話した。驚いた家の人は今まで以上に娘を大切にした。この家の息子の嫁となり、娘夫婦が亡くなった父弁慶の霊を弔うため供養塔を建て、大法要を行なったとつたえられている。軍扇は今、吉川家に残っているといわれている。